創業者の歩み

ブリヂストンの基盤を創りあげた創業者 石橋正二郎はどのような人だったのでしょうか? 私たちブリヂストングループの全員に受け継がれる「ブリヂストンらしさ」の源は創業者の人柄や考え方などにあるはずです。このコンテンツでは、創業者 石橋正二郎のエピソードを連載で紹介していきます。

Vol.4 決心と逆風

 1928年、全国的な不況下にあってもブリヂストンの前身である日本足袋株式会社は、大いに発展していました。しかし正二郎はそれに満足することなく、ある決心をします。「これからは、自動車産業が大きく伸びるはずだ。となると、将来のゴム工業として大きく伸びるのは、自動車タイヤ。ぜひ自分の手で国産化したい」。

 この決心は、周囲の大反対を招きます。当時の日本での自動車産業といえば、保有台数は5万台ほどで、またタイヤは輸入品ばかり。正二郎の兄である徳次郎は、厳しく反対します。そこで日本足袋(株)の技術者だったヒルシュベルゲル技師らにも意見を求めると「タイヤの技術は生易しいものじゃない。おやめになった方がいい」と言われてしまいます。

 ところが正二郎の決心は変わりません。当時、ゴム研究の権威だった九州大学教授の君島武男博士のもとを訪れ、その決心を語ります。すると君島は「タイヤの製造技術がいかに難しいかを、私はよく知っている。成功するのは容易じゃない。しかし、もしあなたが研究費に100万円や200万円を捨ててもいいと言うなら、お手伝いしましょう」と答えました。

 四面楚歌の状況において、ついに協力者を得た正二郎。当時200万円といえば日本足袋(株)1年分の利益に匹敵する莫大な金額でしたが、タイヤ事業発足という壁を乗り越えるためには、惜しくは感じませんでした。早速ヒルシュベルゲル技師らに命じ、ヒーリング商会を経て、タイヤ製造機械をアメリカの機械会社に注文しました。いよいよ「ブリヂストン」が、大きな一歩を踏みだしたのです。

Vol.4 決心と逆風

*本文中は敬称略

参考文献:「私の歩み」(石橋正二郎著)
「石橋正二郎」(小島直記著・ブリヂストンタイヤ(株)刊)


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