創業者の歩み

ゴム底を“縫い付ける”タイプの足袋は耐久性が弱かったことから、ブリヂストンの前身、日本足袋では、ゴム底を“貼り付ける”足袋の開発に取り組みました。正二郎は、ゴムの専門技術者・森鉄之助をスカウトし、自らも毎日数時間を研究室で一緒に過ごしてスタッフたちを指導激励。正二郎が好んだ言葉、「昼夜兼行」「是が非でも」どおりの行動力と情熱を注ぎ、1923年1月に「アサヒ地下足袋」を誕生させました。
発売開始後も改良を重ねる一方、販売では、正二郎が発案した、販売員自らが地下足袋を履いて農村や労働の現場に飛び込む方法により、品質の良さをアピールすることに成功。また、関東大震災で焼け野原と化した東京の復興は、軽くて丈夫で安全なアサヒの地下足袋が人々に重宝がられ、需要を急激に伸ばしていく契機となりました。
ところが、販売2年目の1924年5月、久留米工場で火災が発生。工場の大半が焼失しました。地下足袋の生産を一時中止する事態となりましたが、この時、各地の足袋会社十数社が一斉に模造品を作り始めました。正二郎は、特許権侵害の訴訟を起こして真正面から対決。「当社の地下足袋は、自信を持って品質優秀のものをつくっている。各地に品質粗悪な模造品が続出しているが、これを黙認すれば労働者階級は結局粗悪品を履くこととなり、大衆の不利益となる。われわれの真意はこの粗悪な模造品を一掃して、日本産業に貢献せんとするにある」(一部省略)と、新聞紙上で主張を伝えました。係争は、単なる利益擁護のためというより、経営理念貫徹のための闘いだったのです。
2年以上に及んだ係争は、日本足袋が勝訴を収め、正二郎は勝訴後も、模造品を作る会社には製造販売を許さない考えを維持していました。しかし後に、和解を希望する会社には分権し、販売を許可する方針へと転換します。常に産業の発展、大衆の利益のために、問題があれば問い詰めるが反省すれば快く許す、という正二郎の性格を示す結果となりました。
*本文中は敬称略
参考文献:「私の歩み」(石橋正二郎著)
「石橋正二郎」(小島直記著・ブリヂストンタイヤ(株)刊)