創業者の歩み

ブリヂストンの基盤を創りあげた創業者 石橋正二郎はどのような人だったのでしょうか? 私たちブリヂストングループの全員に受け継がれる「ブリヂストンらしさ」の源は創業者の人柄や考え方などにあるはずです。このコンテンツでは、創業者 石橋正二郎のエピソードを連載で紹介していきます。

Vol.9 グッドイヤー社との提携

 1949年11月、グッドイヤー社のP・W・リッチフィールド会長が来日しました。当時、世界最大のゴム・タイヤメーカーであるグッドイヤー社は、日本への進出を計画。日本のタイヤメーカーを視察することになり、正二郎との会談を求めてきたのでした。

 東京・目黒のホテルで正二郎と顔を合わせたリッチフィールド会長は、来日の目的よりも先に、ジャワ島にあるグッドイヤー社の工場が元よりも立派な状態で返ってきたことに対しての謝辞を述べました。

 第二次世界大戦中のことです。ジャワ島に上陸した日本軍は同工場を接収。陸軍から委任経営の命令を受けて、福永俊一工場長らを現地へ送ったのが正二郎でした。終戦を迎え、現地の社員らは、工場を元よりも立派な状態でグッドイヤー社に返還。グッドイヤーの社員とも温かい握手を交わし、現地の人たちが別れを惜しむほど、平穏無事に日本へ引き揚げたのでした。そのことに対し、リッチフィールド会長が正二郎へお礼を述べたのです。

 正二郎は、ジャワ島へ社員を送り出す時、福永工場長に「工場設備を完全な姿のままにして返すことは日本人の心でもある」と命じていました。正二郎の命令を忠実に守り、戦時下においても、敵国の資産をより良い姿で返還するための配慮を社員らが行っていたこと、その結果、会談の冒頭から、リッチフィールド会長との間に心の交流を図れたことは、正二郎にとって何よりの喜びでした。リッチフィールド会長は、ジャワ島の工場の事実を通じて、石橋正二郎という経営者の人柄や経営観を感じ取ったのでしょう。

 戦時中のジャワ工場における誠実な行動が、当時は技術や設備に差があったグッドイヤー社との対等な交渉をもたらし、技術提携が成立したのです。そしてブリヂストンの近代化とその後の発展につながっていきました。

Vol.9 グッドイヤー社との提携

*本文中は敬称略

参考文献:「私の歩み」(石橋正二郎著)
「石橋正二郎」(小島直記著・ブリヂストンタイヤ(株)刊)


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