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伝説のレーシングドライバー・大久保力さんに聞く     1960年代のモータースポーツとブリヂストン(前編)

今年はブリヂストンがモータースポーツ(MS)に関わって60周年の節目の年です。クルマやドライバーが極限の状態で挑戦を繰り返すレースで、「タイヤは生命を乗せている」を大原則に安心・安全を守り、クルマの動きを支えるための挑戦を繰り返してきたことが、今日のブリヂストンにつながっています。
今回は、ブリヂストンのモータースポーツへの極限の挑戦が始まったばかりの1963年、レース用タイヤ開発の構想段階からブリヂストンの開発ドライバーを担い、現在は自動車ジャーナリストとして活躍する大久保力さんに当時の極限への挑戦についてお話を伺いました。
モータースポーツ活動が始まったばかりの頃の「挑戦」を知ることで、私たち従業員一人ひとりがこれからのブリヂストンの「挑戦」を支えるためのヒントがあるかもしれません。ぜひ最後までご覧ください。
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元ブリヂストンの開発ドライバー
大久保 力(おおくぼ・りき)さん

1939年、東京・小金井市生まれ。14歳で原付、16歳で小型四輪免許を取得、少年時代からエンジン付きの乗り物に親しむ。1959年に二輪の浅間火山レースに参加したのがレース初経験。二輪ライダーとして、そして鈴鹿サーキット完成後は四輪ドライバーとして、さまざまなレースに参加。1964年から1967年までブリヂストンの開発ドライバーを務める。1965年にはフォーミュラ・ドライバーとしてマカオ・グランプリに参戦。1975年にロードレースを引退。

また、学生時代からジャーナリストとしての活動を開始し、二輪・四輪誌にバイクやクルマに関する原稿を執筆。日本のモータリゼーションが始まったばかりの頃、その進化と発展をレースも含むさまざまな角度から体験的に触れつづけてきた人物として、おそらく日本で唯一のポジションにある。

『サーキット燦々』(三栄書房)、『はつらつ人生バイク無量』(三栄書房)など著書多数。

4輪レースの誕生

――1960年代、大久保さんは2輪、4輪のレーサーとして活躍し、レーシングタイヤ、高速道路時代に向けての乗用車タイヤ開発にも携わられていたとのことですが、まず当時の時代背景について教えてください。

今日の日本は、自動車王国として、海外に勝るとも劣らない高速道路網も整備されています。しかし、「もしいきなり高速道路ができていたらどうなっていたか」を考えると恐ろしくなります。1962年に開設された鈴鹿サーキットができたことで、長いコーナーを思い切り走ることが自動車にとってどれだけ難しいことなのかが初めて明らかになったからです。高速道路時代の幕開けに向けて、サーキットの存在はなくてはならないものでした。

ただ、当時のサーキットで行われていたレースは2輪が主流。第二次世界大戦の敗戦で4輪の製造が禁止されていたこともあり、4輪レースの機運は全く盛り上がっていませんでした。鈴鹿ができたと言っても、サーキットの幅は狭く、3台4台の車が抜きつ抜かれつのレースをすることは無理だと思われていたのです。

そんななか、1963年1月、突然、鈴鹿で5月に4輪のレースを開催するという記者発表がありました。それが日本初の本格的4輪レース「第1回日本グランプリ自動車レース大会」です。そこから4輪メーカーは慌ててレースの準備を始め、3月には出場するメーカーが出揃い、鈴鹿でテスト走行が始まりました。私も富士重工業株式会社(現株式会社SUBARU、以下富士重工)の契約ドライバーとして参加しました。

当時、富士重工やトヨタ自動車株式会社(以下トヨタ)はブリヂストンのタイヤを使っていましたが、どこのタイヤも3–5周もすれば使えなくなってしまい、次から次へと交換するしかないように思われました。しかし、ブリヂストンは、富士重工、トヨタと協働で改善を進め、レースまでのわずか2ヶ月で劇的にタイヤの性能を向上させ、本番では20周くらい走れました。

一気に加速するタイヤ開発

――第1回グランプリで得た知見を次にどのようにつなげていったのでしょうか。

第1回から第2回までの1年間で、マシンもタイヤも飛躍的なレベルアップを遂げました。スバルの360ccクラスでの1周のタイムが、4分ちょうどからわずか1年で3分30秒まで短縮されましたから、開発のスピードが尋常ではなかったことがわかります。大卒初任給が1万円程度の時代に、鈴鹿サーキットを借りる費用は1時間25万円。それでも予約がなかなか取れず、関東から10時間かけて鈴鹿に行き、1時間走って帰るようなコストや時間を惜しまない開発が進められていました。

第2回グランプリは国内ほぼ全ての自動車メーカーが参加して開催されました。自動車レースの人気も高まり、各メーカーにとってグランプリに勝つことが極めて重要になってきます。今では笑い話ですが、技術を盗もうとするスパイが暗躍するようになり、鈴鹿でも怪しい人をたくさん見かけました。車が来るとレース脇の草の中に隠れたり、観客席から下のピットに補聴器を垂らして会話を聞き取ろうとしたり、なんてこともありましたね。

自動車レースに勝つためには、タイヤをどう改善していくかが重要なテーマになりました。耐久性はある程度高まり、今度はドライバーから「コーナーで滑らないようにしてほしい」という要望が出されました。当時の鈴鹿サーキットでも仕様上時速200km以上でのテストはできなかったため、頭で考えるしかありませんでした。最終的にラウンドショルダー形状が採用されました。

レース前日には、関係者のレースにかける熱い思いを聞き、その時にドライバーの使命をはっきり自覚した気がします。マシンを設計した人、作った人、タイヤを用意した人。その人たちが叩き出す最高タイムに少しでも近づけること。私にできるのはそれしかないと考え、必死にレースに臨み、第2回グランプリの国内格式のT-1クラス(排気量360ccの車両がメインのクラス)で、なんとか優勝することができました。

ただ、自動車レース人気が高くなりすぎて、メーカーも市販車の新車開発に身が入らず、これでは業界のためにならないと、一転、自動車レースを禁止する流れに。1964年からしばらく「レース」という名を冠した大会が開催されなくなってしまい、そのあおりを受けて私も富士重工を去ることになりました。
――その後、どのようなことがきっかけでブリヂストンのタイヤ開発に携わるようになったのですか。

1964年の夏に、サーキットで数回会ったことのあるブリヂストンの技術サービス部門の方から声を掛けられました。
本社では、当時の技術サービス部長の服部六郎さん(その後の専務取締役)が待っていました。「ブリヂストンとして、本格的レース用・高速で走ることのできる市販タイヤを作りたい。そのためには、経験豊富でどんなところでも走れる大久保さんのようなテストドライバーが必要だと」とありがたいお誘いがあって契約を交わしました。

後編では、いよいよ大久保力さんがブリヂストンで開発ドライバーをされていたときのレース用・高速で走ることのできる市販タイヤ開発の秘話、これからのモータースポーツにおいてブリヂストンに期待することについて伺っていきます。
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