火災現場でメディア対応に奔走

栃木工場火災は、工場の従業員のみならず、さまざまな人たちに多大な影響を与えました。
それぞれの現場で奮闘した皆さんの声を紹介します。
それぞれの現場で奮闘した皆さんの声を紹介します。

ブリヂストンビジネスサービス(株)
常務取締役
若林 伸 さん
(当時:(株)ブリヂストン 広報・宣伝部に所属)
新幹線から見えた黒煙 一斉に向けられたマイク
――火災の一報をどこで知りましたか?
昼休みの終わりに食事からオフィスに戻ると、バタバタしている同僚を横目に、すぐに役員会議室に呼ばれました。社長室長と人事総務本部長から、「栃木工場が火事だ!すぐに現地に飛んで対応してくれ!」と言われ、PCの電源を落とす間もなくそのまま新幹線に飛び乗りました。映像を見ていなかったので「いったいどういうことだ?」という気持ちでした。
那須塩原駅が近づくと、同じ車両にいた人たちがみんな一斉に左側の窓から見える景色にくぎ付けになりました。工場が燃えている。「とんでもないところに来た」というのが率直な印象でした。
昼休みの終わりに食事からオフィスに戻ると、バタバタしている同僚を横目に、すぐに役員会議室に呼ばれました。社長室長と人事総務本部長から、「栃木工場が火事だ!すぐに現地に飛んで対応してくれ!」と言われ、PCの電源を落とす間もなくそのまま新幹線に飛び乗りました。映像を見ていなかったので「いったいどういうことだ?」という気持ちでした。
那須塩原駅が近づくと、同じ車両にいた人たちがみんな一斉に左側の窓から見える景色にくぎ付けになりました。工場が燃えている。「とんでもないところに来た」というのが率直な印象でした。
――現地に入ってからはどのような対応を?
多くのパトカーと消防車、上空にはヘリコプターが旋回していて、マイクやカメラを抱えたマスコミがたくさん集まっていました。工場内の対策本部で情報収集を進めていたのですが、30分くらいすると集まっていた記者たちが「広報の窓口は誰かいないのか!」と怒り始め、意を決し「東京から来た広報担当です」と告げたとたん、すぐに取り囲まれて一斉にマイクとカメラを向けられました。何とかやるしかないと覚悟を決め、わかっている事実を説明するとともに、工場の従業員や警察、消防の方に話を聞いて情報整理に努めました。
その後は、近くの黒磯工場に移動し、21時から始まる記者会見の準備に当たりました。辛辣な質問が多く寄せられることが想定されたため、登壇者に丁寧な応答をしていただくよう事前のインプットを進めました。結局、最後のNHKの記者が引き揚げたのは夜中の3時。見送った後、黒磯工場の体育館に畳を敷いてもらって少し横になりました。
多くのパトカーと消防車、上空にはヘリコプターが旋回していて、マイクやカメラを抱えたマスコミがたくさん集まっていました。工場内の対策本部で情報収集を進めていたのですが、30分くらいすると集まっていた記者たちが「広報の窓口は誰かいないのか!」と怒り始め、意を決し「東京から来た広報担当です」と告げたとたん、すぐに取り囲まれて一斉にマイクとカメラを向けられました。何とかやるしかないと覚悟を決め、わかっている事実を説明するとともに、工場の従業員や警察、消防の方に話を聞いて情報整理に努めました。
その後は、近くの黒磯工場に移動し、21時から始まる記者会見の準備に当たりました。辛辣な質問が多く寄せられることが想定されたため、登壇者に丁寧な応答をしていただくよう事前のインプットを進めました。結局、最後のNHKの記者が引き揚げたのは夜中の3時。見送った後、黒磯工場の体育館に畳を敷いてもらって少し横になりました。
――いつまで栃木で対応していたのですか?
火災後の1週間はそのまま栃木でメディア対応にあたりました。何も持ってきていなかったので、必要な着替えなどは工場の庶務の方に買いに行っていただきました。その後も長期滞在が予想されたため、一旦自宅に着替え等を取りに戻って本社に寄ったのですが、広報の執務室には、壁一面に状況が刻々と記載された模造紙が貼られていました。おにぎり、カップ麺が積み上げられ、皆やつれた状態で必死に電話対応に追われているのを見て、「自分も現場で頑張らないと」と、改めて気を引き締めたのを覚えています。その後も警察や消防の査察の結果を受けての会見や、生産の再開、製品出荷再開のリリース対応などが続き、結局ほぼ1カ月間は栃木で対応を続けることになりました。
火災後の1週間はそのまま栃木でメディア対応にあたりました。何も持ってきていなかったので、必要な着替えなどは工場の庶務の方に買いに行っていただきました。その後も長期滞在が予想されたため、一旦自宅に着替え等を取りに戻って本社に寄ったのですが、広報の執務室には、壁一面に状況が刻々と記載された模造紙が貼られていました。おにぎり、カップ麺が積み上げられ、皆やつれた状態で必死に電話対応に追われているのを見て、「自分も現場で頑張らないと」と、改めて気を引き締めたのを覚えています。その後も警察や消防の査察の結果を受けての会見や、生産の再開、製品出荷再開のリリース対応などが続き、結局ほぼ1カ月間は栃木で対応を続けることになりました。
火災から学んだリスク管理の重要性
――火災前後でご自身の業務に変化はありましたか?
広報の仕事には、プラスとマイナスの側面があります。ニュースリリースを出したり、取材を受けたり、普段はそうして企業の株価やブランド価値を高めるためのプラスの仕事が多いと思っています。ただ、当時私が栃木で経験したのは、誠実に対応しながらもマイナスの影響をいかに抑えるかという仕事です。リスク管理は実践経験を積むことが難しいのですが、有事の際に備え対応しておく必要性を強く感じました。栃木の火災以降、初動で現場対応いただく工場長の方を主な対象にしたメディアトレーニングが始まるなど、リスクヘッジの考え方が全社に浸透していったのは非常に良いことだと思います。
広報の仕事には、プラスとマイナスの側面があります。ニュースリリースを出したり、取材を受けたり、普段はそうして企業の株価やブランド価値を高めるためのプラスの仕事が多いと思っています。ただ、当時私が栃木で経験したのは、誠実に対応しながらもマイナスの影響をいかに抑えるかという仕事です。リスク管理は実践経験を積むことが難しいのですが、有事の際に備え対応しておく必要性を強く感じました。栃木の火災以降、初動で現場対応いただく工場長の方を主な対象にしたメディアトレーニングが始まるなど、リスクヘッジの考え方が全社に浸透していったのは非常に良いことだと思います。
――改めて当時を振り返って忘れられないことは?
印象に残っているのは、黒磯の消防署長の方が言われたこと。「皆さんの会社は一度火がついたらなかなか消せない、そういう意味で危険なものを大量に生産していることを、改めて全従業員に認識していただきたい」。消防の方から面と向かって言われたこの言葉は重く受け止めなければいけません。
またブリヂストンは、栃木工場火災を含め、いくつもの大きな危機を一丸となって乗り越えてきた会社です。そのマインドはぜひ若い方にも受け継いでいっていただきたいと思います。
印象に残っているのは、黒磯の消防署長の方が言われたこと。「皆さんの会社は一度火がついたらなかなか消せない、そういう意味で危険なものを大量に生産していることを、改めて全従業員に認識していただきたい」。消防の方から面と向かって言われたこの言葉は重く受け止めなければいけません。
またブリヂストンは、栃木工場火災を含め、いくつもの大きな危機を一丸となって乗り越えてきた会社です。そのマインドはぜひ若い方にも受け継いでいっていただきたいと思います。
――現在のブリヂストンの防災意識をどう感じていますか?
意識は確実に高まっていますし、リマインドのために工夫もされていると思います。一方でいつでも起こりうる危機であることを風化させないよう、インパクトのある映像などで視覚的に訴え続けていくことが大事ではないでしょうか。
意識は確実に高まっていますし、リマインドのために工夫もされていると思います。一方でいつでも起こりうる危機であることを風化させないよう、インパクトのある映像などで視覚的に訴え続けていくことが大事ではないでしょうか。
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